2025年6月25日、TOKIOがグループ解散を発表しました。
1994年のCDデビューから31年。ジャニーズの中でも異色の「バンドスタイル」で活動し続けた彼らは、音楽だけでなく、バラエティ、農業、地域支援──多彩な活動で唯一無二の存在感を放ち続けました。
国分太一さんの活動休止を受けての突然の発表に、ファンをはじめ多くの人々から驚きと惜しむ声が上がりました。
TOKIOという存在が、日本のテレビ文化や社会に何を残したのか──31年の歩みとともに、その功績をたどります。
バンドアイドルという新しい形

TOKIOの起源は、1989年テレビ朝日『アイドル共和国』内で誕生した「城島茂バンド(通称:ジョーバンド)」にあります。当初は城島茂さんと山口達也さん中心の編成でしたが、のちに「TOKIO BAND」と改称し、舞台やライブのサポートで経験を積んでいきました。
当時のメンバーの多くはジャニーズJr.内ユニット「平家派」出身で、1990年代前半は少年隊・光GENJI・SMAPのバックで演奏とダンスを担当。その後、国分太一さん、松岡昌宏さんに加え、長瀬智也さんも正式加入します。
6人編成となったTOKIOは1994年7月、武道館でデビュー記者発表を実施。同年9月21日、『LOVE YOU ONLY』でデビューを果たしました。デビュー時のキャッチコピーは「ダテに待たせたワケじゃない」。言葉どおり、長い下積み期間を経てのスタートでした。
当時、ジャニーズでは歌って踊るグループが主流でしたが、TOKIOは楽器を手にしてパフォーマンスを行うバンドスタイルという異色の存在。音楽性と、親しみやすさを兼ね備えたアイドルとして、その一歩を踏み出します。
バンドとバラエティ二足のわらじ

デビューからしばらくは音楽番組やライブ活動を中心に活動していたTOKIOですが、1995年にスタートしたバラエティ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』が、グループの転機となります。
最初は深夜番組として始まったこの番組は、メンバーが身体を張ってロケに挑戦するスタイルで注目を集め、のちにゴールデンタイムに進出。名物企画が次々に誕生し、「TOKIO=鉄腕DASH」というイメージが世間に定着していきました。
音楽面では、2003年にリリースされた『AMBITIOUS JAPAN!』が大ヒット。東海道新幹線のキャンペーンソングとして全国に浸透し、TOKIOの代表曲として今も語り継がれています。さらに2006年の『宙船(そらふね)』では、作詞作曲を中島みゆきが担当。ロックバンドとしての骨太な存在感を世に示しました。
バラエティでも音楽でもヒットを連発し続けたこの時期、TOKIOは「ジャニーズの異端児」から「国民的グループ」へと進化を遂げていきます。
震災後の支援活動とDASHの進化
2011年の東日本大震災で、福島県浪江町にあったDASH村は壊滅的な被害を受けました。TOKIOは、DASH村で築いてきた繋がりを途絶えさせることなく、福島県の農産物PRに無償で出演するなど、支援を継続。その誠実な行動は大きな反響を呼びました。
同じ頃、『ザ!鉄腕!DASH!!』では新たな挑戦が次々とスタートします。
『DASH島』では、無人島を自分たちの手で開拓し、舟屋や水路、反射炉などを一から作り上げる現代の開拓記を展開。その後『DASH 0円食堂』がスタートし、廃棄予定の食材を全国で集めて料理に変える旅で、フードロス問題への関心を自然に広げていきました。
さらに、都市の自然と共生を目指す『新宿DASH』、外来種を食材として活用する『グリル厄介』など、日本の自然や環境に真正面から向き合う企画を次々と展開。
いずれの企画でも、TOKIOのメンバーは専門家の知識を学びながら、自分たちの手で泥まみれになって実行していくスタイルを貫きました。
常に新しい挑戦をし続けるその姿勢は幅広い層から支持を集め、信頼されるアイドルとして、より確かな地位を築いていきます。
しかし2018年、メンバーの山口達也さんが不祥事を受けてグループを脱退。グループは大きな構造変化を迎えます。
長瀬智也の脱退と株式会社TOKIOの始動

2021年3月31日、長瀬智也さんがTOKIOを脱退し、ジャニーズ事務所も退所しました。「裏方として新しい形の仕事をしていきたい」という本人の意志を尊重し、TOKIOはここでまた大きな転機を迎えます。
同時に残る3人(城島、国分、松岡)は、ジャニーズ事務所の関連会社として「株式会社TOKIO」を設立。グループ名を社名にし、芸能人自身が法人を設立するというスタイルは、ジャニーズはもちろん、芸能界でも前例のない挑戦でした。
株式会社TOKIOでは、番組出演だけでなく、地域と連携したプロジェクト「TOKIO-BA(トキオバ)」を始動。農業や林業など、日本のものづくりを支える現場と関わりながら、社会との接点を広げていきます。
こうした姿勢に呼応するように、福島県庁内にはTOKIOとの連携窓口となる「TOKIO課」が設置され、行政・企業との協働も実現。グループの信頼性は、芸能の枠を越えて現実の社会に根ざすものとなっていきました。
メンバーがそれぞれ取締役に就任し、自分たちの言葉と責任で未来を切り拓いていく「株式会社TOKIO」。
それは、TOKIOというグループがただのアイドルではなく、信頼と行動力の象徴であったことを物語っています。
TOKIO解散へ 信頼のグループが選んだ幕の引き方

2025年6月25日、「TOKIO」の解散が発表されました。1994年のCDデビューから31年。国民と深く結びついてきたグループは、自らの歩みに終止符を打つ決断をしました。
解散の背景には、直前に報じられた国分太一さんのコンプライアンス違反が関係しているとみられます。メンバー同士の話し合いにより「この状態では再び信頼や応援を得るのは難しい」との判断があったと発表されています。
『やり直す』のではなく『責任を取って終える』という選択に、寂しさをおぼえる一方で、どこかTOKIOらしさを感じてしまう──そんな思いを抱いた人もいるのではないでしょうか。
解散というかたちで一区切りを迎えたTOKIOですが、彼らが残してきた言葉や音楽、そして挑戦の数々は、これからも多くの人の記憶に残り続けるでしょう。