「私の前世は日本人だったかもしれない」と発言するほどの親日家、シンディ・ローパーはアメリカはニューヨークで生まれた生粋のニューヨーカーです。
一流のエンターテイナーとしてひのき舞台に立ち続けながらも、ときおりお忍びで日本を旅するほどの親日家の彼女と日本とのかかわりを追ってみました。
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親日家のシンディ・ローパーは、フリーター時代に日本との関わりが生まれた
シンディ・ローパーは1953年にニューヨークのブルックリン地区で生まれました。
12歳のときにはギターを手にし、作詞にも取り組んでいたので、この頃から歌手を夢見ていたようです。
17歳のときに高校を退学し、愛犬のスパークルとともに家を出て、自活を始めました。
ウェイトレスやモデルといった女の子らしいバイトをやったかと思うと、競馬の調教助手という変わった職業も経験しましたが、このフリーター時代に日本料理店「ミホ」の鈴木サクエという女性と知り合い、彼女の店で働くようになりました。
親日家、シンディ・ローパーの原点ですね。
シンディ・ローパーを親日家にしたものとは
日本料理店「ミホ」の鈴木サクエという女性は実に面倒見のいい女性で、シンディ・ローパーのように高い目標を持ちながらも、周囲から認められずにいる若者を店で働かせて、生活を支援していました。
シンディ・ローパーに対しても、「いつかその努力が報われる時が来るからがんばりなさい」と励まし続けていました。
店で働く中で日本人の料理人たちとの交流から、日本への親愛の情が芽生えてたのも自然の成り行きといえるでしょう。
そして、ソロになった1983年に出したアルバム「She’s So Unusual」が世界的な大ヒットとなり、古着のようなファッションと独特のダンスが大評判となりました。
親日家シンディ・ローパーと日本との交流
日本料理店「ミホ」の鈴木サクエという女性との交流ですっかり親日家となったシンディ・ローパーの初来日は1984年でした。
このときは大ヒットしたアルバム「She’s So Unusual」のプロモーション活動で来日しました。
テレビ出演のときには「私がハリウッドで学んだのは『ハリウッドスマイル』だけ」といって、上唇をめくり上げ、四角く口を上げる独特の笑顔を披露していました。
1990年には「第41回NHK紅白歌合戦」に出場し、「涙のオールナイトドライブ」をステージで歌いました。
シンディ・ローパーの名を日本で一気に高めたのは、何といっても2011年東日本大震災のときです。
すでに日本行きの飛行機に乗っていた彼女は、機内で地震を知り、日本に着いてもそのまま引き返すという選択肢もあったはずですが、「こんな時こそ歌で人を励ましたいと」使命感に燃え、予定通り日本ツアーをすべて行いました。
このときの彼女の行動は、大々的にスポーツ新聞やワイドショーが取り上げ、誰もが称賛の拍手を惜しみませんでした。
日本料理店で働くことで日本を知り、日本人に励まされたことで親日家となったシンディ・ローパーは、東日本大震災のときの行動で多くの日本人から愛されることになりました。
歌い続ける限り、日本人はシンディ・ローパーに対し熱い拍手を送り続けることでしょう。