ポール・マッカートニーの輝かしい伝説
ポールマッカートニー(Sir James Paul McCartney,MBE)は、ギネスブック(ギネス・ワールド・レコーズ)に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として公式に認定されたミュージシャンです。
そこで彼がなぜそのように呼ばれるようになったかその理由を、彼の有名な楽曲とともに少し御紹介してみたいと思います。
「ザ・ビートルズ」として世界中で大人気となった60年代
ポールマッカートニーはイギリス・リバプール生まれのイギリス人で、15歳のときにジョン・レノンと出会い「クオリーメン」というバンドを結成します。
その後何度かのメンバーの変遷を経て、1962年に「ザ・ビートルズ」としてのデビューを果たしました。デビュー曲の「ラブ・ミー・ドゥー」、2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」が立て続けにヒットし、ビートルズは一躍イギリスの大人気グループとなりました。
その後イギリスのみならず世界中でもヒットを飛ばし、1970年に解散するまでさまざまなセールス記録を塗り替え続けただけでなく、その楽曲は以降の世界のポップ音楽シーンに多大な影響を残しています。
ジョン・レノンと並んでビートルズの多くの楽曲を手がけたのがポールマッカートニーで、彼らの代表曲でもある「イエスタディ」や「レット・イット・ビー」、「ヘイ・ジュード」なども彼の作詞・作曲によるものです。
ビートルズは1966年に来日して武道館でコンサートを行い、以降武道館でのコンサートは日本のミュージシャンにとっても一つのステータスとなっています。
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「ウイングス」で大ヒットを飛ばす70年代
ポールマッカートニーは、1970年4月にビートルズを脱退し翌年ビートルズは正式に解散しています。
その後ソロとして、「マッカートニー」「ラム」という2枚のアルバムを出した後、1971年に妻のリンダ・マッカートニーらとともにバンド「ウイングス」を結成し、解散するまでに7枚のオリジナルアルバムと1枚のライブアルバム、多くのシングルをリリースしました。
ウイングスが1973年に発表したアルバム「バンド・オン・ザ・ラン」は全世界で600万枚以上のセールを記録し、その後のアルバムも世界中で大ヒットを飛ばします。1977年のシングル「夢の旅人」は、イギリス国内でそれまでビートルズの持っていた記録を塗り替え「第2の国歌」と呼ばれるほどになりました。
その後は、ポール自身が1980年の来日ツアー時に麻薬所持で逮捕されたことをきっかけに、ウイングスは1981年に解散しています。
[next_heading title=他のアーティストとのコラボも多い80年代以降]
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